和上の御両親

大沼法龍和上は、明治二十九年(1896年)山口県岩国市に村岡家の次男として出生された方です。

御著書『親の念願・親の遺訓』に御両親について、左記の様にお書きになっています。

『村岡家は先祖已来浄土真宗に流れを汲み、新蔵爺さんは無二の信者の評判が高く、念仏行者の典型として仰がれていて、父は常に お前が坊さんになったのは新蔵爺さんの再誕であろうと言っていました。母は幼少の頃からお寺に参詣し、一生嫁入りをしないで尼さんになると言っていたそうですが、親族のものから、女教師の制度はなく、尼さんになって法衣を纏うだけで何の役にも立たない、それよりも結婚して産れた子供を勉強さして、坊さんにして布教活動をしてもらえば、自分の念願も達成し、世のため人のためにもなるではないかと注意されて結婚し、長男が産れたから相続人はできた、次の子が男子であれば僧侶にしようと「この児坊さん坊さん、名利を離れた、行いの正しい、世を救う献身的の坊さんに成って欲しいと、胎内教育に専念し、聴聞、読経、お給仕を怠らず、夜は「修身人の道」という俗諦行儀の書物を離さず、常にお念仏をしていて下さったお蔭で、僧侶にさしていただくことが 子供のときから私のただ一つの希望でありました。」(三頁)

『母が亡くなった後に、父が岩国で一人で暮らしていたから、不自由ですから八幡に来なさいと言ってもなかなか来られない。「孫が多いから嫌ですか」「孫は好きなのだけれども、お前のところに行くと和上のお父さんというので、いつも羽織を着て座布団の上に座っているのが窮屈ですから」「そんなにせんでも、屋敷から山にかけて三千坪からあるから仕事をしてくださいよ」「肥桶かついで山仕事をしてもよいなら行く」 いよいよ引越されたら、よい火鉢や洋服タンスやら高価な品はみな売り払って、鍬や鎌やシャベルばかり持ってきて、毎日毎日笹藪を整地して、大根、茄子、水菜を食べきれないほど作って近所に配っている。

自分の身なりなどちっとも贅沢な事はしないが、寄付なら一番先にする。

父は若い時から寺参りが好きで、村の人を次から次に誘っては参詣をさし、骨身を惜しまない。自分は倹約して寄付は率先してする、節食はする、奉仕はする、真理に契うているから病気はせず、九十歳の長寿を保ったのですから、私も真似をしようと心懸けてはいるけれども、父のように規則正しくはいかない。父は信仰によって常に心を平静に保ち、名利を離れ色欲を慎み、頭は使わず適度の運動をして、自然の道理に契うていたから長寿が保てたのだと思います。』(六九頁)

「百千の寺院を建立したよりも私一人を仏にして下さった母の功績は偉大なものであります。祖先の土地を放して勉強さしても成功すればよいけれども、堕落すれば先祖に申訳がない。自分が身を粉にして学資を送り失敗しても私に果報がないと諦められると言って渡布し、一人の仏様を作るのだと必死の努力、頑迷な子供にでも通じない筈がない。本当に糞真面目で通ったが、本科の卒業論文は、『七祖より高祖に至るまでの三往生の展開』、考究院(研究科)の卒業論文が『三経、七祖、高祖の助正論』、いよいよ卒業間際で永年積み上げた素直に聞いて有難がっていた自心建立の心が徹底的に転覆して、寝食を忘れて、必死の求道となり三定死の境地に立たされ突き破られたときは、言妄慮絶の不思議の境地に立たされた時の大慶喜、筆舌の及ぶ処ではありません。」(二八六頁)

又、大沼和上はご自身について左記のように述べておられます。

「中学時代を終えて大学に入学してからは、人並の勉強では人並のものにもなれない、両親は布哇で苦労して学資を送金してくださるのだから、贅沢をしてはすまない、学生の間は菰を冠っていても、牡丹の花が咲けば、人が菰をはずして賞美してくれるのだと思ったから、自炊して余分のお銭は乞食に施していました。将来は学者になるのも尊いが、布教使になって直接同行を教化してゆく身になろう。学者と布教使は仲が悪い。学者に言わすと、布教使は、法螺ばかり吹いて、学問の定規から逸脱していると言い、布教使の方から言わすと、学問学問と言って融通がきかないから、大衆をリードすることができないと悪口を言い合っているから、自分は学問の定規に当てて信仰の体験を語ろう。話は下手であっても求道するものには、それが一番の指針となるのだと思ったから、暇さえあれば総会所に参詣して布教の練習をしていた。考究院(今の大学院)は四人で、苗村高綱君は天台の研究で司教で死亡、 桐谷順忍君は祈祷の研究で勧学になり、高千穂徹乗君は浄土宗の研究で勧学になったが、大沼は本典の研究で破門になった。 ライバルの三人は学問で立身する頭脳明晰で学究的で優秀であったが、自分はその方は不得意で学問を信仰で生かして、真仮の水際を明瞭にして、実地の体験をさすことにおいては日本中の第一人者になりたいと念願し決心していました。

学問を通じて信仰を得るのではありますが、学問即信仰ではありません。真実信心には必ず名号を具す、名号には必ずしも願力の信心を具せざるなり、と仰せられてありますが、真実信心には必ず仏智の不思議を具しておりますが、学問には必ずしも仏智の不思議を具せざるなりであります。学問でなければ導かれませんが、学問を離れなければ、体験にはなりません。」(三一一頁) 

「法龍は本科と研究科と二回、三願、三経、三門、三蔵、三機、三往生の三三の法門の真仮を研究さしていただき、卒業間際に実地の求道となり、机上の空論や観念の遊戯が如何に戯論に等しいものであるか、その学問を通して実地の体験が、如何に尊いものであるかを知らしていただいたのです。」(三一四頁)

「私は威張るのでもなければ、自慢するのでもありません。人間の毀誉褒貶を度外視し、名利を弊履の如く振り捨てて、一も布教、二にも布教、三も布教、四も布教と、猛進しているから、乱酔の連中からは毛虫の如く嫌われ、和合僧を破る唐変木と罵られているけれども、酒を飲まされることは毒を飲まさるるより辛いのです。信施を酒色に乱費することは、身を削がれるよりも辛いのです。悪口や無駄話をすることは、口がねじれるほど辛いのです。こんな偏屈な人間は、人間としては無価値で廃人であるに違いないけれども、仏様からは真の仏弟子と寵愛され、観音勢至の友達となり五種の嘉譽を頂いて、一切の有碍に障りなく、十方法界を心とし、山川草木すべてが御恩喜ぶ種となり、無尽蔵の功徳を頂いているから家庭の中は極楽であり、物質には恵まれ過ぎて不自由なく、健康で長寿を保ち、思いのままにならないことはないというよりも、思いのままより以上のことばかりが噴きでて、最上無上の生活をさせていただき、善因善果を正しく見せていただき、正しく実行させていただいていますから、喜びの中の喜びであります。これを「光明の広海に浮びぬれば至徳の風静かに衆禍の波転ず」と仰せられたのであります。」(319頁)